神を敬い 祖先を尊ぶ
先祖供養をする必要がある理由
まず人は死んだらタマシイ残る 体は無くなっても霊魂は存在し続けると考えるからですよね
そして子孫との関係。(血縁に絞られるものではない)業とかカルマと云われるもの。とプラスして 感情、波動の相互作用ではないかと思うのです。
しかも必ず天国 極楽のような場所へ転生するとは思っていない。そうでなさそうな場所に行くことになりそうだとか…。
さらには一度供養すれば形式的にすればいいというものでもない。 と考えているからでしょう。
もちろん 節ごとの行事だからと 世間がやっているからと行っている場合もあると思いますが
なにか粗末に扱うとかしてはならないと潜在的に思っているひとは多々いることでしょう。
それでは、実際に供養とは 何か 何故するのかを考えます。
おそらく生前行いの良くなかったひとはその罪を背負って つまり負のエネルギーを蓄えて次の世界に行くことの不安感。
わたしは何も悪いことをした事がないと言っても聖者でもあるまい 普通の生活を普通の教育を受けたひとなら何かしら人に迷惑をかけたり困らせたりしてるでしょう。
いや、それすらもしていませんとしても、もし地球上に生きとし生けるもの平等なルールのもとに定められるとしたら間違いなく他の生命を犠牲にして生きています。
それもマイナス点だとしたら あの世に行ってあんたはこんなにも沢山の生命の犠牲のもとに生きてきたのに全く感謝もしていない。
と判断されたらもう言い訳もできません。
あの世に行ってから反省し、謝罪では遅いのです。
この世の出来事はこの世で解決しなければならない。 それがルール。
それを子孫の者が供養する事により祖先はもとより自分も安心し、恵みをいただき生活できるのですね。
それが常不軽菩薩の説いた
仏所護念法 = 先祖礼拝供養
汝達 道を行じて皆正に作仏すべし
の道です。
先祖の罪汚れを子孫が成り代わってお詫びをする。
ただお詫びをするだけで心が伴ってなかったら通じるものも通じない。
心をつくるにはまず形を整える。
自己を慎み他人に優しく の精神。が先祖の望む好ましい子孫の状態
自分だけが良ければいい…は餓鬼道の象徴になってしまいます。
六念の法の 仏 法 僧 施 を念ずること
残りの戒 と 天 は教菩薩法 = 六根清浄 みそぎ払い により あの世とこの世を清浄になり恵をいただき生活できるのですね。
続く。
神を敬い 祖先を尊ぶ
都内にもあちらこちらに神社があります。
境内に居ると 通りすがりの人が足を止めて手を合わせてる
お年寄りよりも三、四十代の方多くが結構目にとまる。
地方の神社よりもそもそも人口は多いとはいえ
挨拶に訪れるひとが結構多いなぁと感心する
何を拝んでいるのかはもちろん知り得ないのだが、何しろ神仏に手を合わせる習慣がある事は確か。
そういうひとは自分の親や祖父母からの影響があるんでしょうかね。
宗教というと特定の神仏を対象にしていたり
その神仏のご加護や功徳で自分の家の先祖を供養する というようなイメージがあります。
さて先祖供養は何故するのでしょうか。
このような疑問というか問いはよくあるとこはありますよね。
では何故供養する必要があるのか ということです。
続く。
私の祈り
天地のお恵みさま
世の人に妨げとなるわたくしの悪い根性を引き抜いて
一切の衆を喜ばせる良い性分と
それを実行してゆく知恵と力とをお授けください お願い致します。